第50回 安倍首相の辞書には<セクハラ>はない?

  いえ、安倍首相に限らず、<従軍慰安婦>問題で<日本軍による具体的な強制はなかった>とする人たちの論理では<この世界に“セクハラ”は存在しない>ことになってしまいます。どういうことかといいますと…
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  <朝鮮日報>のインターネット版(2007/6/28)にこんな記事がありました。見出しは「TV出演中の日本人女性、大学講師からセクハラ受けていた」です。
  フィリピンのケイブルTVで韓国のKBSインターナショナルが見られます。チャンネル・サーフィンをしていて、これまでに何回か行き当たった番組の一つに、世界各地から韓国に来ている外国人女子留学生を10人以上集めて様々な質問をし、意見を述べてもらうというものがあります。わたしは韓国語が分かりませんが、美しい学生を選んでいるようで、見た目にもなかなか華やかなトークショウです。質問する側の韓国人男性も、スタディオ内の観客もずいぶん楽しんでいます。日本語にすると『美女たちのおしゃべり』というタイトルになるそうです。
  さて、上の記事によると、ある大学講師が、このショウに出演していた日本人留学生(22)に番組の中で「大学講師から一緒に寝ないかと言われた」ことがあると暴露されて、勤務先の大学に辞表を提出したということです。その後、講師は「セクハラを行った事実関係を認め」解任されています。
  女子学生はこの番組への出演を取りやめ、間もなく日本に戻るそうです。
  「解任?たったそれだけのことで?」「寝ないかと言っただけだろう?」と感じるあなたは安倍首相や多くの自民党国会議員と同類です。産経新聞もここに加えていいでしょう。
  上の一件が“セクハラ”になるのは、相手(ここでは女子留学生)の意思を無視して、この講師が性的関係を迫ったからです。講師には、この学生の成績を評価し、単位を与えるかどうかの“権限”(権力)があったからです。事実上、この“権限”を背景にして<関係を迫った>からです。
  同じ<朝鮮日報>によると、産経新聞は先月18日、「(従軍)慰安婦は<雇用契約>を交わしていた」という米軍報告書が存在する、と報じ、「報告書に慰安婦の雇用条件や契約条件が明記されており、慰安婦の女性が一定額の借金を返せば解放されるという条項があるという点で、当時の米軍当局が日本軍の“強制徴用”や“性奴隷”とは違った認識を持っていた証拠になる」と強調している、ということです。
  「ソウルで金品と引き換えに徴募され、ビルマ(現ミャンマー)のミイトキーナ(現ミッチナ)地区にあった<キョウエイ>慰安所で日本軍を相手に売春行為を行っていた朝鮮人女性20人と、慰安所を経営していた41歳の日本人男性が、米軍の捕虜と」なり、とられた調書にそういう記録があったというわけです。
  ところで、刑事事件では、いまでも、“自白の強要”があったとして後に無罪になるケースがあります。警察や検察がその“権力”を背景に“強要”を繰り返し、“誘導”を行えば、警察・検察に都合のいい自白は容易に得られるということですね。
  「金品と引き換え」であろうとなかろうと、全体の<慰安所>制度の背後には日本軍の“権力”がありました。
  上の大学講師が、かりに、高価な贈り物を女子学生にしていた(女性学生はそれを断りきれずに受け取っていた)としても、それがこの学生の意思に反する限り、この講師が自らの“権力”にモノを言わせて関係を迫ったことに変わりはありません。
  従軍慰安婦制度は日本軍が(少なくとも)容認していた“事業”です。たとえ、女性たちをその手で連れ出したのが民間人であったとしても、背後に日本軍の“権力”があって初めてそれは可能だったのです。ミャンマーまで連れ出した「朝鮮人女性20人」を強要・誘導して<契約書>にサインさせるのは簡単なことだったはずです。
  そんな<契約書>にどんな価値があると産経新聞は言うのでしょう?
  しかも、その米軍報告書は「米軍が主に日本人経営者に対する尋問を行って作成した」ものだといいます。公平な調書だとは思えません。
  そんなものがあったからといって、日本軍の関与がなかったかのように主張するのは愚かなことです。自らの思考力のなさ、善意の欠如を証明するだけです。
  上の大学講師は「現実には、わたしは彼女と性関係を結んでいない。それがなんでセクハラなのだ」というような愚かなことは言っていません。
  産経新聞や安倍首相、自民党国会議員などよりは“権力”の意味が分かっていたようです。
  セクハラは“権力”が犯す罪なのだ、ということが。
  日本が<バブル景気>に沸いていたころ、多くの日本企業がアメリカに進出してきました。ロサンジェルス・タイムズ紙に何度も、日本企業でのセクハラが報じられたものです。
  民主的な社会では(企業内であろうとなかろうと)“権力”というものがどういうふうに受け取れているかが分かっていない企業・経営者がそれほど多かったのです。
  “権限”(権力)を有するあなた(男女を問わず!)が、その“権限”が及ぶところで(あなたとは異なる性の)相手に、その意思を無視して、性的関係を求めるか、性的言動を繰り返して示せば、それはセクハラと認定されるということが理解できていなかったのです。現実に性的関係を結んだかどうかはここでは問われません。
  安倍首相と多くの自民党国会議員、産経新聞はそこのところがまったく分かっていません。
  日本軍が直接手を出して“強制連行”したかどうかをこの人たちは問題にしたがっていますが、ここでの<悪の根源>は、当時の日本軍が持っていた“権力”なのです。問題にされているのはそこなのです。
  その、“権力”があって初めて成り立ったこと、“権力”なしには成り立ち得なかったことの一つが<従軍慰安婦>制度です。
  安倍首相や多くの自民党国会議員、産経新聞などがいかにも使いそうな「そんなことを言われたって、相手は俺からの贈り物を受け取ったりもしているんだよ」などという言い逃れは、セクハラ事件では通用しません。“権力”にモノを言わせて受け取らせた可能性が高いからです。
  ですから、産経新聞、<契約書>があったなどと愚かなことを言わないように!
  当時の日本軍の“権力”を後ろ盾にしていれば、そんなものは簡単に作り上げることができたはずです。
  <従軍慰安婦>制度で日本が問われているのは“権力の悪”を日本がどうとらえるかということです。
  日本と日本軍がかつて犯した“権力の悪”による罪をいまの日本がどこまで、どう反省しているかを世界は見ているのです。
  底の浅い言い逃れを世界はすでに聞き飽きています。そんなものはもうくり返してほしくないのです。真実の謝罪を求めているのです。
  米下院の外交委員会は27日、旧日本軍の慰安婦問題について日本は十分に反省していないとして、非難決議案を39対2で可決ました。下院本会議でも7月中には可決される見通しです。
  それを受けて安倍首相はこう発言しています。
  「米議会ではたくさんの決議がされている。そういう中の一つ」「コメントするつもりはない」
  この人はいったい何を考えているのでしょうね?
  自分に分かること以外は何も考えていない?考えることができない?
  こういう無能で無責任な人物を首相にしていることを日本人は「恥ずかしい!」と思わなければなりません。
  自分が唯一頼りにしているアメリカの議会の下院委員会が圧倒的多数で決めたことをここまで軽んじたことが持つ深刻な意味も、安倍首相はまったく理解していません。
  参議院議員選挙が近づいています。
  この選挙は、まっとうな日本人が安倍首相の愚劣な政治を拒否する、またとない機会です。

第100回  身体“障がい”者ですって?

  先週報じられたところによると、公明党は今後、党内で作成する文書類から身体“障害”者という表記をなくして、身体“障がい”者とすることを決めたそうです。
  “害”という文字には否定的な響きがあるから平仮名にする−ということでした。
  そうでしょうか?「害」にそこまで否定的な響きがありますか?差別的な意味を感じますか?
  否定的、差別的だと思う人は、「障害者」が「障がい者」と書かれればそれがなくなったと感じ取れるのでしょうか?
  公明党がここでつけている理屈が正しいのなら、なぜ「障」の字の方は残すのでしょうか?
  たとえば<新潮国語辞典 古語・現代語>によると−
     ガイ【害】 ①そこなうこと。悪い影響。 ②障害。さしさわり。災い 
ショウガイ【障害】 ①さまたげ。じゃま。 ②ハードル 
     ショウ【障】 ①隔て・境をつくうこと。 ②ささえ防ぐこと。 ③さわりになるもの。さまたげ。    −とあります。
  この辞典に説明されたところからは、「害」を平仮名にするのなら「障」もそうするのが当然だと思えますし、そもそも、「害」を「がい」に変えなければならない理由も見えてきません。
  そうですね。「害」がいけないというのなら−。   
  「犯罪“被害”者」という表記はどうでしょう?この“害”にも否定や差別を感じますか?
  このごろはあまり使われなくなった“公害”はどうですか?
  犯罪“被がい”者だとか“公がい”と書かなければ、自分が差別者あるいは加害者になってしまったように感じますか?負い目を感じますか?
  身体の障害を言い表してきた古来の日本語は確かに障害者への差別・拒否・否定・無視・嘲笑などにまみれていました。
  ですから、いまでも、たとえば、野球中継で<負傷したランナーがびっこをひきながらベンチに帰った>というようなことを解説者が口にしたりすると、放送局はただちに<放送中に不適切な表現がありました。撤回してお詫び申し上げます>といったふうにフォロウします。“言葉狩り”をそこまでやるべきかどうかの議論は別にありえると思いますが、とにかく、放送局はそのくらい神経を使っています。
  ですが、“障がい”者?
  障害者という言い方は、古来ネガティヴに使われてきた、身体障害を言い表す日本語を避けようと、英語の<handicap>や<the handicapped>から借りてきたものなのではありませんか?日本語としては“無傷”(差別などからは無縁)の言葉だったのではないですか?
  “障害”という言葉はすでに“障がい”に変えなければならないほど汚れていますか?
  公明党の新方針は事なかれ主義の偽善が作らせたものだと思います。
  次のような状況を設定して“障がい”について考えてみましょう。
  A君は両手に軽度の障害があります(ただし、障害者手帳は持っていませんから、法的には障害者ではありません)。
  自動車を運転する、ゴルフクラブを振る、スーツケイスを運ぶ−といった大きな動きでは格別に不自由な思いはしないのですが、シャツのボタンをとめる、靴紐を結ぶ、自動販売機にコインを入れる−などの細かい動きが意のままになりません。箸を使うのも楽ではありません。
  A君と同僚のB君は得意先のCさんを格式のある日本食レストランに招いて商談をつづけることにしました。
  料理がテーブルの上に並ぶと、B君がCさんに言いました。
  [状況 1]
  「Cさん、実は、Aは手の具合が悪い、まあ、言ってみれば障害者でしてね、食事の最中になるべく物を取り落とさないように、こんな格式の高いところでなんですが、箸の代わりにフォークとスプーンを用意させますから、そこのところはどうぞお気になさらんでください」
  [状況 2]
  「Cさん、このA君は手が不自由な人で、食事中に食べ物や箸などを皿やテーブルの上に取り落とすようなことがあるかもしれませんが、まあ、そこは寛大にお受け止めくださるとありがたいところです」
  [状況 1]では、B君はA君を“障害者”と呼んでいますが、「箸の代わりにフォークとスプーンを用意させます」と言っています。こんな格式高いレストランではA君が自分からは切り出しにくいだろうことをさっと代言しています。食事が始まるとA君が直面することになる困難を事前に解決してやっています。
  [状況 2]では、B君はA君を“手が不自由な人”と呼び、気を使っているようですが、「食べ物などを皿やテーブルの上に取り落とす」ことはイケナイ、ハズカシイことだという前提に立って、Cさんに「寛大な許し」を乞うています。“寛大さ”を乞うて、A君の自尊心を、実は、傷つけています。
  どちらのB君がより好ましく感じられますか?
  A君を“障害者”と呼んだときのB君?それとも「“手が不自由な人”」と呼んだときのB君?
  そうですよね。A君をB君がどう呼んだかは、実は、重要ではありませんよね。
  呼ばれ方はどうであれ、フォークやスプーンを用意させてくれたときのB君の方をA君は好ましく感じるはずです。
  なぜなら、遠慮して“手が不自由な人”A君を呼んだときのB君は、一方で、(軽度でも)障害者だったら、そうしたくない場所で物を取り落とすことがあろう(し、人びとの流れの速さにそって道を歩くことができないだろうし、他人に助けてもらわなければバスに乗ることができないこともあろう−など)という当たり前の事実をきちんと受け止めていないからです。受け止めず、Cさんのような“普通”の人にはそういうことが“迷惑で不快”なことだと思い込んでいるからです。自分を含む“普通”の人は寛大にそんな不快さを胸の中で押し殺すべきだと考えているからです。
  −障害者を<“普通”の人たちに許されて存在する人間>に貶めているからです。
  障害者自身が自分の障害のことをどう感じるかは、その人しだい。こうだと言い切ることはだれにもできないでしょう。
  ただ、障害者を、たとえば、「手足が不自由な人」と呼び換えれば障害者の気が楽になる−と考えるのは大きな間違いでしょう。要はその“中身”です。心です。心の底に障害者への差別感を残したままでは、どんな言い換えにも意味がありません。かえって弊害が残ります。
  公明党は党内文書の書き換えなどに偽善的なエナジーを使うのではなく、障害者の実情をまず党員に学ばせるべきです。障害者ができるだけ自力で生きられるためには何がなされなければならないかを党全体で考えるべきです。そう薦めます。
  ところで−。
  障害者が直面している問題を公明党のような言い換えですり抜けようという考えが広まれば、“故障”を“不具合”と呼ぶことを好むあのNHKは身体障害者のことをこれから「身体“不具合”者」と呼び出すかもしれません。
    言葉いじりにふけって、障害者をそこまで愚弄するようなことには、絶対にならないように願っています。

第94回 「野良犬に餌をアゲテオラレル老恩師」?

  <苦言熟考>(ステアク・エッセイ)では<日本語がおかしくなっている>という趣旨の文章をこれまでに何度か書いてきています。
  今回"問題"にしたいのは<"いられる=いらっしゃる"と"おられる">と<"やる"と"あげる">の二つの混同例です。
  「わたしの恩師であるA先生は、近頃、近所の公園で野良犬に餌をアゲルことを趣味にしてオラレます」を例文にしょうか。
  "アゲル"と"オラレル"をカタカナにしたのは、言うまでもなく、この使い方がおかしいと思うからです。
  「わたしの恩師であるA先生は、近頃、近所の公園で野良犬に餌をやることを趣味にしていられます=いらっしゃいます」の方が正しい(ふさわしい)と信じるからです。
  NHKテレヴィを見ていてすぐに気づくのは、いまの日本人は(NHKのアナウンサー、記者、解説者などを含めて)ほとんど例外なく「野良犬に餌をアゲテオラレル老恩師」式の日本語を使っています。
  NHKは率先して日本語を悪くしています。
  信頼できる国語辞典を見てみましょう。<新潮国語辞典 現代語・古語」>からここに該当する説明を抜き出します。
  【あげる】上げる・揚げる・挙げる ⑧(「与える」の謙譲語(下から上に与えるのを下から見ていう)進呈する。さしあげる。
  <恩師>の<野良犬>への行為を<謙譲語>で言い表すのは、明らかに、おかしいのです。<恩師>は<野良犬>に<餌をやる>のであって<アゲル>ということはありえないのです。
  では<飼っているペットの犬に餌をアゲル>や<庭の朝顔に水をアゲル>は?
  この単語の本来の意味に従えば、そんな用法はやはり間違いです。
  こんな言い方がごく普通になったのは、たぶん、飼っているペットや育てている朝顔をかわいいと思う気持ちを(必要以上に)言葉に込めたがる人が増えたからです。ペットや観賞用の草花を自分の“上”に置くことで、自分の行動に何か高尚な意味があるかのように見せたがるように、多くの人たちがなってきたからです。
  【おる】(居る) (動詞の下に付き、動作・状態の継続の意味をそえる)…している。自分を卑下する語。また他人の動作を卑しめののしる語。
  <野良犬>に餌をやっている<恩師>がその<野良犬>に対して自分を卑下するはずはありませんし、この文の書き手がここで<恩師>の動作を卑しめののしるつもりだとも思えません。「野良犬に餌をアゲテオラレル老恩師」というのは、やはり、間違っているのです。    
  一閣僚が「首相は相当に悩んでオラレました」というのはおかしいのです。「悩んでイラレ=イラッシャイました」と言うべきなのです。
  「出かける前に祖母に薬を飲ませてアゲテきました」はいいのですが「二階のヴェランダに布団を干してアゲテきました」は間違っています。
  こんなおかしな言葉遣いがはびこってきたのは、他者との距離・位置の取り方が日本人に分からなくなってきているからに違いありません。自分(の位置)が見えなくなってきているからだと思えます。社会全体として見れば、これは実に危険な状態です。
  時が移れば言葉は変わっていくものです。それは承知しています。
  ですが…。
  日本人がいかに深刻な“自己喪失”に陥っているかが言葉遣いの変化で分かるとなると…。
  日本が悪い方向に向かって進んでいるのではないかと思えてなりません。
  「野良犬に餌をヤッテイラッシャル老恩師」
  こんなまともな日本語をもっと聞きたいものだと思ってます。

第93回 あれは正しい情報だったようです

  ちょうど40年前の1968年の秋ごろに、友人のH君からこんな話を聞きました。
  これは、そのH君が彼の友人A君から聞いた話です。
  A君には、中国(長期旅行)から戻ってきたばかりのB君という友人がいました。
  そのB君がA君にした“みやげ話”の中にこういうのがあったそうです。
      +
  B君がしばらく滞在した地方の(ある人民公社の中の)村で、ある朝、村の中心の通りに突然“市”が立ちました。
  普段は“市”なんかない通りに、露天の小さな店がいくつもできあがり、日ごろはあまり見かけることがない野菜や果物をたくさん並べていたのです。
  B君の目には、村はめずらしく活気を帯びて見えていました。
  そのうち、B君の耳に、外国の友好使節団がその日のうちにこの村に立ち寄るというニュースが入ってきました。
  やがて、その友好使節団がやって来ました。
  B君が驚いたのは、使節団が村を去るやいなや、小店を出していた(村の周辺から集まっていたと思われる)農民たちが、野菜や果物などをまとめて、さっと立ち去ったことでした。
  通りはたちまちのうちに、何事もなかったかのように、いつもどおりのいなか道に戻っていました。
  遅まきながら、B君は気づきました。
  あれは、外国からの友好使節団に見せるための“にせ市”だったのだということに。
  人民公社による農村経営がうまくいっているということを言わんがために、この地方の共産党幹部と人民公社が急遽、農民たちに“にせ市”を立てさせたのだということに。
  「これが文化大革命真っ只中の中国で現実に起こっていることだ」とB君はA君に述懐したそうです。
     +
  これはあくまでA君がB君から聞いた話をH君がわたしに聞かせてくれたものです。又聞きの又聞きです。
  ですから、あれから40年間、わたしがこの話を第三者にしたことは(たぶんわたしの兄弟を例外として)一度もありません。エッセイなどに書いたこともありません。
  <共産党独裁の国だから、アリソウナコトダ>とは感じていましたが、<又聞きの又聞き>では、話に信頼性が欠けすぎていますから。
  北京オリンピックがきのう終了しました。
  実に華やかだった開会式のあと、その開会式をめぐるいくつものゴマカシが明らかになりました。
  ①実はコンピューター・グラフィックで処理していた“花火のビッグ・フィート”②胸元にマイクをつけさせて強行した「歌唱祖国」の“口パク”③漢民族の子供たちによる“少数民族なりすまし”…
  主催者側は<式をより良いものにするために必要な演出だった>として、世界の人びとをだましたことへの反省の意はまったく示していません(“口パク演出”の実際の歌い手だった少女がどれほど精神的な傷を負ったかについても、知らんふりを決め込んでいます)。
  B君が日本に持ち帰った、あの40年前の“にせ市”情報。
  <又聞きの又聞き>だったのですが、あれは真実を伝えていたのだと、いま強く感じています。
  経済的に世界のスーパー・パワーとなった中国ですが、中国共産党は、その精神の核心のところで、昔からほとんど変わっていないのですね。

第62回 米中将の対イラク戦争観

  <ニューヨーク・タイムズ>の10月12日号に<Ex-Commander Says Iraq Effort Is ‘a Nightmare’ 「悪夢だ」 イラク侵攻で前司令官述べる>という記事がありました。
  「前司令官」というのは、イラクのアブグライブ収容所で起きた捕虜虐待事件のころにイラク侵攻米軍の司令官だったリカルド・サンチェス(退役)中将のことです。
  2004年に司令官の職を解かれ、2006年に退役しています。
          - – - – -
  “incompetent"
  「無能な」「役に立たない」
  中将は<the Bush administration’s handling of the war ブッシュ政権の対イラク戦争の進め方>を“incompetent”と断じ、その結果、状況は
  “a nightmare with no end in sight 終わりが見えない悪夢”
  になっていると述べています。
  中将はまた、ブッシュ政権
  “catastrophically flawed, unrealistically optimistic war plan 破滅的に欠陥だらけで、現実離れした楽観的な戦略”
  を抱いていたと批判しています。
  そのことが
  “After more than four years of fighting, America continues its desperate struggle in Iraq without any concerted effort to devise a strategy that will achieve victory in that war-torn country or in the greater conflict against extremism 4年間以上戦ってきたあともまだ、アメリカはイラクで死に物狂いの戦いをつづけているが、戦争でずたずたになったあの国で、あるいは、過激主義に対するいっそう大きな戦いで、勝利を達成するための戦略を考え出そうとする一致した努力は欠けたままだ”
  という状態を生んでいるというわけです。
  “There has been a glaring and unfortunate display of incompetent strategic leadership within our national leaders 戦争を行うに当たって、わが国の指導者たちが戦略的に無能だったことは、あまりにも明らかで不幸なことだった”
  とも中将は言っています。
  そうなったのは、文民の指導者たちが“derelict in their duties 自分たちの義務に怠慢であり”
  “lust for power 権力への渇望”
   という罪を犯していたからだ、と考えるからです。
  サンチェス中将についてこの記事は、公平さを保つために
  "General Sanchez has been criticized by some current and retired officers for failing to recognize the growing insurgency in Iraq during his year in command and for failing to put together a plan to unify the disparate military effort サンチェス中将は、中将がイラクで司令官を務めていたあいだに反抗勢力の成長に気づかなかったことと、米軍による懸命の軍事努力をまとめ上げる計画を練ることができなかったことで、現役・退役軍人たちから批判されてきた"
  とも伝えています。
  ですが…。
  フセイン大統領が捕らえられたあと、ブッシュ大統領海上航空母艦に戦闘機で降り立ち、喜色を満面にたたえて(時期尚早の)“勝利宣言”を行いました(あれから何千人のアメリカ軍将兵、何万人のイラク国民が落命したでしょうか?)
  あの目立ちたがりで的外れ、滑稽で悲惨なパフォーマンスを思い出す人は、サンチェス中将のブッシュ政権批判に同意するに違いありません。
  サンチェス中将の能力にも問題があったとすれば、それは結局、そんな人物を司令官に任命(することを許可)したアノ大統領に問題があったわけです。
  アメリカがイラクで行っている戦争は、傲慢な愚か者が始めた愚かな、非道な戦争です。
  いまでは、アメリカ国民の大半がうんざり、辟易している戦争です。
  アフガニスタンでの対タリバン・アルカイーダ戦争とは違います。
  サンチェス中将の政権批判の背後には、そんなアメリカ国民のムードがあったはずです。
  ところで…。
  インド洋上で海上自衛隊から給油を受けたアメリカ(やパキスタン)の艦船の任務の一つは“海上警備”だそうですね。
  でも、何に目を光らせようというのでしょう?
  「テロ対策特別法」が想定しているところでは、警戒の対象になっているのは(少なくとも名目上は)タリバンとアルカイーダですよね。
  でも、タリバンとアルカイーダには海軍も空軍もありません。
  インド洋へのアクセスも(まだ)持っていないはずです。
  どこかの国の軍艦か民間の船舶がタリバンとアルカイーダに海上から武器などを供給する恐れが現実的にあるのでしょうか?
  自衛隊による給油活動と対タリバン・アルカイーダ戦争には、大雑把に広げられた“テロとの戦い”という言葉が言いたがっているほどの関連が本当にあるのでしょうか?

第49回 5年間も放置されたターミナル3

  ニノイ・アキノ国際空港(NAIA)には2002年にほぼ完成した第3ターミナルがあります。…いまだに使われていません。
          ————–
  昨年9月に日本に一時帰国した際にマニラ国際空港(NAIA)まで乗ったタクシーの運転手は、早朝だったのに、途中の交通渋滞を恐れたものか(単純に料金を多くしようとしたのか)通常のコースではなく、わたしが週に一回ゴルフの練習をするヴィラモア・ゴルフコースのそばを通って空港に向かいました。
  このゴルフコースを過ぎると、道路の左側に大きく立派な建物が現れました。標識には<NAIA TERMINAL 3>と書かれていました。ですが、使用されているようには見えません。
  怪訝そうなわたしに、運転手がこう言いました。「フィリピン政府の非能率の見本ですよ」「もう何年間も放置されたままで、ばかげた話です」
  22日の<フィリピン・スター>紙が「NAIA-3をめぐる行きづまり解消へ」という記事を掲載しました。短くてあいまいな記事で「行きづまり」の内容がはっきりしませんが、<解消へ>というのは…。
          −
  <フィリピン開発銀行(DBP)がすでに、このターミナルの建設を担当した竹中工務店に支払うためのカネ、6000万ドルをフィリピン政府に貸し付けることを合意している>からだそうです(ただし、このカネが建設代金の一部として竹中工務店に支払われるのか、あるいは裁判を終結させるための和解金としてなのかは不明です)。
          −
  <ターミナル3の総建設費は当初6億5000万ドルだった。ドイツの会社Fraport AG が中心となって立ち上げたthe Philippine International Air Terminals Co. (Piatco)が請け負った>
          −
  <(1997年に着工された)ターミナル3は2002年に事実上(98%)完成していたが、新たに大統領になったアロヨ氏が「エストラーダ前大統領が建設契約を不法に変更した」として契約を破棄した。その後、最高裁判所エストラーダ政府とFraportとのこの契約を無効だと判断した>
  補足:<エストラーダ前大統領が建設契約を不法に変更した>というのは「WIKIPEDIA」で調べてみたところ…。<エストラーダ大統領の下で交わされた当初の契約では、Piatcoは建設を終えたあとの数年間、ターミナル3を自ら運営し、その後フィリピン政府に運営権を移譲することになっていたのに、エストラーダ政府はその運営権を4億ドルで買い取ることにした>ということのようです。アロヨ新大統領はこの契約を“負担つきになっている(フィリピン国民に無用の負担を強いる?)”として、委員会を設置して再評価させました。その後、最高裁はこの契約を無効だと判断しています。
          −
  アロヨ政府は、政府自らが建設の仕上げを行い、Manila International Airport Authority (MIAA)の手で、2006年3月に開業すると宣言したが、開業はさらに延期された。最高裁判所も、政府がPiatco(Fraport)に30億ペソ(600万ドル)を支払うまでは政府によるターミナル3の運営は認めないという決定を下した。
  補足:政府がPiatcoになぜ、この600万ドルを支払わなければならないかは<フィリピン・スター>の記事からは不明ですが、フィリピン政府は昨年9月、とにかく、支払っています。…竹中工務店とおなじく、何らかの和解金(かその一部)でしょうか。とにかく、この2社への支払いが可能になったことが「行きづまりが解消へ」(ターミナル3のオープンが近づいた)という記事の根拠になっています。
          −
  <Fraportは4億2500万ドルの損害賠償も求めているが政府はこの要求を拒否している>
          −
  <そういうわけで、ターミナル3は開業に近づいているが、建物内に欠陥個所が40見つかっており、この修繕費にさらに600万ドルが必要だ>
  補足:この欠陥工事の責任がどこにあるのかも<フィリピン・スター>の記事からは分かりません。修繕費を政府は自ら負担する考えでいるようです。
         −
  竹中工務店がPiatcoの下でどういう具合に建設に参加したかどうかも、やはり、分かりませんし、わたしにも知識がありません。
  ですが、98%が完成してからほぼ5年間もターミナル3が放置されてきた原因はぼんやりと分かってきました。
  タクシーの運転手がフィリピン政府の非能率の見本ですよ」とぼやいた背景が見えてきました。
  遅滞の第一の原因は、建設契約時の大統領、エストラーダ氏が「もともとの契約の内容をあえて変更して、ターミナル3の建設と運営で動くカネの一部を懐に入れよう」と考えたことにあったようです。…そう読めます。
  不法賭博に関わった容疑でエストラーダ氏を大統領の座から追ったアロヨ大統領は、すでに結ばれていた契約を解除することで、エストラーダ氏への不正嫌疑を際立たせ、同氏をさらに追い詰めることにしたのでしょう。
  そして、アロヨ大統領による契約解除が(Piatcoと竹中工務店を原告とする)民事訴訟を引き起こし、工事の完了をさらに遅らせたようです。
  工事は中止(放棄)されたまま時間が過ぎていきました。
  ターミナル3の建設で<私的な不法蓄財>を行おうとしたエストラーダ前大統領と、それを<政争の道具>にして自らの権力を固めようとしたアロヨ大統領、という構図ですね、これは。
  なるほど「ばかげた話」です。
  ショッピング・モールつきの4階建てのビル。建物内外に3200台の車がとめられる駐車場。1日3万3000人(ピーク時には1時間に6000人)の乗客を扱うことができる設備。
  それが5年間も放置されてきたのです。
  あの運転手がなぜあんなふうにぼやいたのかがやっと分かったような気がします。
  フィリピン国内での公共事業は、多かれ少なかれ、こんな調子で行われているのでしょうね。
  運転手がまだ「あきらめ」口調でなかったことが救いです。

第48回 万能! “解釈変更”

  そんな“解釈”が通るのなら、安倍首相、憲法改定する必要はないのでは?
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  安倍首相の私的懇談会「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二前駐米大使)というのは、選出されたそのメンバーの顔ぶれから、どういう内容の答申をするかが初めから分かっているわけですが…。
  <毎日新聞>(6月12日)によると、11日の2回目の会合では、  「公海上で米艦が攻撃された際」には「集団的自衛権の解釈を変え、自衛隊が護衛すべきだ」という意見がほとんどだったようです。
  従来の<解釈>は、「集団的自衛権保有するが行使できない」「日本が<有事>状態になった場合の自衛目的以外では米艦を守れない」というものだったようですから180度の<解釈変更>を薦めようとしているわけです。
  問題は、日本が自衛権行使に及んでいない状態のときに公海上で米艦が攻撃された場合、米艦防護のために集団的自衛権を行使するかどうか、行使できるかどうか、です。
  会合では、その例として五つの状況が指摘されたそうです。
  1.日米共同訓練中に自衛隊が補給に当たっている
  2.日米共同訓練中の米艦である
  3.周辺事態で自衛隊が後方支援活動を行っている
  4.同事態で自衛隊が船舶検査活動を行っている
  5.弾道ミサイル発射を自衛隊が警戒監視している
  この状況下で米艦を攻撃してきた相手には、自衛隊が武力反撃できることに「懇談会」はしたいのです。
  これは自衛隊が自ら<有事>状態に入り込む、<有事>状態を作り出すということにほかなりません。
  危険極まりない<解釈変更>です。
  今回の「懇談会」ではそれ以上のことには触れられていないようですが、この<解釈変更>が確定すれば、日本国首相は、日本自体がさしたる危険に陥っているわけではないのに、(国会を無視して)自衛隊幹部と少数の安全保障関係者と話し合っただけで、他国と戦争状態に入ることができることになってしまいそうです。
  こんな重要な変更を姑息な(間に合わせの)<解釈変更>で行わせるわけにはいきません。
  <解釈変更>だけで行えると信じている安倍首相と自民党に政権を任せていてはなりません。
  いったんこんな変更ができるとなると、日本国憲法はないも同然ということになります。
  いえいえ、そもそも、日本を平和国家から軍事国家に変えるのに<憲法改定>は不要だ、という極端な議論さえ可能になってしまいます。
  12日の報道によると、世界の軍事大国の4番目に中国がのし上がったということです。…軍事支出額で日本を追い抜いて。
  日本はいまでも、アメリカ、イギリス、フランス、中国に次ぐ軍事支出大国なのです。
  愚かな首相に自衛隊を好きに扱わせるわけにはいきません。
  安倍首相には、自分が何をしているかが分かっていないのです。民主主義や憲法の意義が分かっていないのです。
  日本の現在・将来にとって実に危険な人物です。
  国民がもう少し利口にならないと、この国は大変なことになってしまいます。