第100回  身体“障がい”者ですって?

  先週報じられたところによると、公明党は今後、党内で作成する文書類から身体“障害”者という表記をなくして、身体“障がい”者とすることを決めたそうです。
  “害”という文字には否定的な響きがあるから平仮名にする−ということでした。
  そうでしょうか?「害」にそこまで否定的な響きがありますか?差別的な意味を感じますか?
  否定的、差別的だと思う人は、「障害者」が「障がい者」と書かれればそれがなくなったと感じ取れるのでしょうか?
  公明党がここでつけている理屈が正しいのなら、なぜ「障」の字の方は残すのでしょうか?
  たとえば<新潮国語辞典 古語・現代語>によると−
     ガイ【害】 ①そこなうこと。悪い影響。 ②障害。さしさわり。災い 
ショウガイ【障害】 ①さまたげ。じゃま。 ②ハードル 
     ショウ【障】 ①隔て・境をつくうこと。 ②ささえ防ぐこと。 ③さわりになるもの。さまたげ。    −とあります。
  この辞典に説明されたところからは、「害」を平仮名にするのなら「障」もそうするのが当然だと思えますし、そもそも、「害」を「がい」に変えなければならない理由も見えてきません。
  そうですね。「害」がいけないというのなら−。   
  「犯罪“被害”者」という表記はどうでしょう?この“害”にも否定や差別を感じますか?
  このごろはあまり使われなくなった“公害”はどうですか?
  犯罪“被がい”者だとか“公がい”と書かなければ、自分が差別者あるいは加害者になってしまったように感じますか?負い目を感じますか?
  身体の障害を言い表してきた古来の日本語は確かに障害者への差別・拒否・否定・無視・嘲笑などにまみれていました。
  ですから、いまでも、たとえば、野球中継で<負傷したランナーがびっこをひきながらベンチに帰った>というようなことを解説者が口にしたりすると、放送局はただちに<放送中に不適切な表現がありました。撤回してお詫び申し上げます>といったふうにフォロウします。“言葉狩り”をそこまでやるべきかどうかの議論は別にありえると思いますが、とにかく、放送局はそのくらい神経を使っています。
  ですが、“障がい”者?
  障害者という言い方は、古来ネガティヴに使われてきた、身体障害を言い表す日本語を避けようと、英語の<handicap>や<the handicapped>から借りてきたものなのではありませんか?日本語としては“無傷”(差別などからは無縁)の言葉だったのではないですか?
  “障害”という言葉はすでに“障がい”に変えなければならないほど汚れていますか?
  公明党の新方針は事なかれ主義の偽善が作らせたものだと思います。
  次のような状況を設定して“障がい”について考えてみましょう。
  A君は両手に軽度の障害があります(ただし、障害者手帳は持っていませんから、法的には障害者ではありません)。
  自動車を運転する、ゴルフクラブを振る、スーツケイスを運ぶ−といった大きな動きでは格別に不自由な思いはしないのですが、シャツのボタンをとめる、靴紐を結ぶ、自動販売機にコインを入れる−などの細かい動きが意のままになりません。箸を使うのも楽ではありません。
  A君と同僚のB君は得意先のCさんを格式のある日本食レストランに招いて商談をつづけることにしました。
  料理がテーブルの上に並ぶと、B君がCさんに言いました。
  [状況 1]
  「Cさん、実は、Aは手の具合が悪い、まあ、言ってみれば障害者でしてね、食事の最中になるべく物を取り落とさないように、こんな格式の高いところでなんですが、箸の代わりにフォークとスプーンを用意させますから、そこのところはどうぞお気になさらんでください」
  [状況 2]
  「Cさん、このA君は手が不自由な人で、食事中に食べ物や箸などを皿やテーブルの上に取り落とすようなことがあるかもしれませんが、まあ、そこは寛大にお受け止めくださるとありがたいところです」
  [状況 1]では、B君はA君を“障害者”と呼んでいますが、「箸の代わりにフォークとスプーンを用意させます」と言っています。こんな格式高いレストランではA君が自分からは切り出しにくいだろうことをさっと代言しています。食事が始まるとA君が直面することになる困難を事前に解決してやっています。
  [状況 2]では、B君はA君を“手が不自由な人”と呼び、気を使っているようですが、「食べ物などを皿やテーブルの上に取り落とす」ことはイケナイ、ハズカシイことだという前提に立って、Cさんに「寛大な許し」を乞うています。“寛大さ”を乞うて、A君の自尊心を、実は、傷つけています。
  どちらのB君がより好ましく感じられますか?
  A君を“障害者”と呼んだときのB君?それとも「“手が不自由な人”」と呼んだときのB君?
  そうですよね。A君をB君がどう呼んだかは、実は、重要ではありませんよね。
  呼ばれ方はどうであれ、フォークやスプーンを用意させてくれたときのB君の方をA君は好ましく感じるはずです。
  なぜなら、遠慮して“手が不自由な人”A君を呼んだときのB君は、一方で、(軽度でも)障害者だったら、そうしたくない場所で物を取り落とすことがあろう(し、人びとの流れの速さにそって道を歩くことができないだろうし、他人に助けてもらわなければバスに乗ることができないこともあろう−など)という当たり前の事実をきちんと受け止めていないからです。受け止めず、Cさんのような“普通”の人にはそういうことが“迷惑で不快”なことだと思い込んでいるからです。自分を含む“普通”の人は寛大にそんな不快さを胸の中で押し殺すべきだと考えているからです。
  −障害者を<“普通”の人たちに許されて存在する人間>に貶めているからです。
  障害者自身が自分の障害のことをどう感じるかは、その人しだい。こうだと言い切ることはだれにもできないでしょう。
  ただ、障害者を、たとえば、「手足が不自由な人」と呼び換えれば障害者の気が楽になる−と考えるのは大きな間違いでしょう。要はその“中身”です。心です。心の底に障害者への差別感を残したままでは、どんな言い換えにも意味がありません。かえって弊害が残ります。
  公明党は党内文書の書き換えなどに偽善的なエナジーを使うのではなく、障害者の実情をまず党員に学ばせるべきです。障害者ができるだけ自力で生きられるためには何がなされなければならないかを党全体で考えるべきです。そう薦めます。
  ところで−。
  障害者が直面している問題を公明党のような言い換えですり抜けようという考えが広まれば、“故障”を“不具合”と呼ぶことを好むあのNHKは身体障害者のことをこれから「身体“不具合”者」と呼び出すかもしれません。
    言葉いじりにふけって、障害者をそこまで愚弄するようなことには、絶対にならないように願っています。